真の残業時間把握を巡る執念の攻防戦

日経ビジネスオンラインより

2017年6月6日(火)

西 雄大氏

 大手広告代理店の社員の自殺を機に、過重労働を放置する企業に対する取り締まりが強化されている。その役割を担うのが労働基準監督署となる。全国に321署と4支所があり、そこで企業の取締りを主体的に行うのが労働基準監督官だ。全国で3241人が働いている。

監督官の存在はあまり知られていない。国家資格で、取り調べたり、送検したりできる司法警察の権限を持つ。2016年度は3673人の受験者に対し、402人が合格している。倍率8倍以上の難関だ。弁護士で、各種資格取得を支援するサイトビジット(東京・品川)の鬼頭政人社長は「キャリア官僚ほどではないが、地方上級公務員より難易度が高い。労働法規を学ばなければならず浅い知識では対応できないため、ハードルは高い」と指摘する。

試験に合格すると、4月に任官される。監督署へ配属され、先輩からOJTで監督業務のイロハを3年かけて学ぶ。その後、別の他府県の監督署で4年間勤める。8年目になると、転勤を希望しないことも言えるようになるという。

ちなみに東京・霞が関の本省と地方の監督署は溝があると言われている。中央官庁にありがちなキャリア組とノンキャリア組に分かれているわけではない。だが本省が方針を通達として全国の労基署に指示を出す構図はある。ある監督官OBは「本省と現場はほんとに仲が悪い。現場が分かってない人からの指示は気分が良いものではない」と明かす。

メールの送受信、領収書から残業特定

世間の機運もあり、監督官は違法残業の実態を証明するために執念を燃やしている。ただ企業を訪問し、出勤簿の確認をするだけで終わるようなものではない。

例えば全員が毎日定時帰りしているタイムカードばかりなど、少しでも疑問点があると徹底的に調べる。労働基準監督官は違法な労働時間が何時間なのかを特定するために膨大な作業量をこなし、送検に持ち込むのだ。

例えば、自動車通勤であれば自動料金収受システム(ETC)の記録や駐車場の領収証などから勤務時間を特定する。電子メールの送受信した時間からも推測できる。また家族に「これから会社を出る」と伝えたLINEやメールも重要な証拠となる。あらゆる情報をつなぎわせることで、長時間勤務と残業代未払いを証明しようとするのだ。

 とある東証一部上場会社の営業所を捜査したときは、タイムカードがなかった。出勤日に判子を押しただけの簡単なものしかなかった。始業も終業時間も分からない。これでは違法残業かどうか特定できない。ただ元社員からは「残業代を支払われていない」という通報が何件も寄せられていた。

 まず監督官は営業所内を捜査し、パソコンに電源をいれた時間と切れた時間を調べ、メールの送受信時間も調べた。最も早い時間を始業時間、最も遅い時間を終業時間とした。トラックに搭載したデジタルタコグラフのデータも解析し、何時間乗車していたかをつかんだ。ただこうしたやり方だけで残業時間を割り出すと、会社の労務担当者が納得しない。

そこで社員全員に、手帳などを持ってきてもらい、過去1ヶ月間、何時まで働いていたのかを聞き出し証拠を集めた。こうした地道な作業によってこの企業を書類送検できた。監督官は「我々が担う刑事案件は100%証明しないといけない。とても大変で地味な作業」だという。

残業自動記録アプリも

このように現状では、監督官が膨大な労力で残業時間を把握するのが現状だ。労働者自身が証拠となる残業時間を自分で記録しようとしても、これまでは手帳などに書き留めておくしかなかった。

最近、スマートフォンにアプリを入れるだけで残業時間を計測できるアプリが登場した。日本リーガルネットワーク(東京・千代田)が提供する「残業証拠レコーダー」だ。スマホに「残業証拠レコーダー」をインストールし、勤務場所や月収、休日などを登録する。休日出勤手当や残業手当の元になる情報を事前に設定する。

設定後は何もしなくても、勤務時間を記録できる。スマホのGPSで勤務地にいることを特定し、いつ出勤し退勤したのかを把握できるからだ。定時を登録しておくことで、残業時間が自動で計算される。残業代の目安もひと目で分かる。南谷泰史社長は「労働者の権利を行使するための材料として活用してもらいたい」と話す。アプリは無料で、この情報は同社のサーバーに蓄積し、弁護士の紹介もしている。

残業の請求は2年間にさかのぼってできる。ただ、未払い残業があることが分かり、労基署に駆け込む場合に注意が必要だ。労基署には膨大な案件が押し寄せるため、端的に説明できるようにしなければならない。プレカリアートユニオンの清水直子委員長は「“一般的な相談”として適当に言いくるめられて帰されることが多い。事前に監督官とアポイントをとったうえで、関連資料を持参し目的を明確化しないと取り合ってもらえない」と話す。違法残業をなくすためには労働者側にも入念な準備が欠かせない。